あの男はもちろん、侍る女たちもいなくなっていた。
外はもう、春が近くて。
雪解けの水の匂いがした。
何も食べ物がなくて、雪の溶けた水を飲んで。
そして、三日ほどで。
武蔵坂の使者たちが、彼女を保護したのだ。
社会的な存在のない…いわゆる戸籍がなかったり、特殊な状況において育ったため、人として暮らすにはある程度の教育が必要なものが入る保護施設が武蔵坂にはある。
彼女は自分を「うい」と名乗った。
なので、名前は「うい」となった。
暴力的で、感情の制御が効かない。我が強く、それを抑えられない。欲しいモノが手に入らないと泣いて叫んで暴れまわる。
ただ灼滅者の素質があり、腕を鬼のそれに変えた。
そんなだから、独房に入れられることが多かった。
泣いて泣いて。暴れまわって。
そんなときは閉じ込められて、ますます泣いて暴れた。
やがて、体力を消耗して。暴れることができなくなって、暗くて狭い独房で横たわったまま泣いてばかりいた。
帰りたい、帰りたいばかりを繰り返した。
羅刹は、彼女に人として生きるすべを与えてこなかった。
そのツケを払うことになった。
……このままでは、処分、という言葉すら出た。
今のままでは、時を待たずに闇堕ちしてしまうだろう。
ならば、人の意識が勝つうちに殺してしまうべきだ。
そんな選別が、行われるのもまた。この世界情勢では必然だったろう。
一人の教師が、反対した。若い女性で、まだ理不尽に立ち向かう情熱を持っていた。
彼女が、ういの担当として付くことになった。彼女はありったけの情熱と献身を持って、ういに立ち向かった。
それは「うい」にとってとても幸運だった。
…そして、何度目かの癇癪で。ういは自分が持っていたぬいぐるみを引き裂いた。
それは、ういが唯一「生まれた家から」持ってきていたものだった。
癇癪を収めたういは、それを引き裂いてしまったことに泣いて、暴れて。なんとか元通りにしようとしていた。けれど、「うい」にはできなかった。「うい」には壊すことは簡単でもその逆はできない。
はじめて「取り返しがつかない」ということを覚えたのはその時だった。
癇癪を起こす「うい」に、担当の彼女は言った
「一度してしまったことは、もう完全に元に戻ることはないのよ」
けれどそう言いながらも、丁寧に丁寧に。ぬいぐるみを繕ってくれた。元に戻らないけれど、心を込めてそれを治して、返してくれた。
ういは、泣いて。泣いて。もう、戻らないものがあることを知った。けれど、もう一度同じように取り戻すことができることを知った。
そうして。
泣くのをやめて。ひとつずつ、取り戻すために。はじめるために。様々なことを覚えていった。
施設を出るのに3年かかった。
名前もきちんとつけなくてはいけなくて。
「雪のひらひら舞う日に、ここに来たから「雪片」。ういは羽衣にしましょうね」
そう、担当の教師につけてもらった。
これが最初の物語。
他愛のない、物語。
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